プロフィール
金融機関に20年以上勤務。
広島県福山市出身。埼玉県在住。社会人の息子と娘の母です。
2020年に金銭的な理由で離婚しました。
お金は稼ぐより守る事が大事だと知りました。
サラリーマンだからできる節税を実践中です。
働くママさんに私が実践しながらお伝えします。
広島県広島市で生まれました
私は1972年10月26日に広島県広島市で生まれました。
※なんと!生年月日はマツコデラックスさんと同じ!
私が生まれた時、父はその当時の花形企業である自動車会社(株)マツダオート広島(現在のアンフィニ広島)の営業マン。
母は美容師免許を持ち、美容専門学校や、テレビ会社のメークアップアーチストとして働いていました。
2年後に妹も生まれました。
広島県福山市に引越し
父の転勤で三歳の時に広島県福山市に引っ越ししました。
母は転職し化粧品会社に勤めました。
父の会社の社宅に住んでいました。
自動車会社の社宅なのですが、一家で2台(奥さんも運転免許持ち)
車を所持しているのは我が家だけでした。
母親が働いているのも我が家だけでした。
つまり鍵っ子でした
夫婦共働き。
でも、寂しいと思った記憶はないです。
妹がいたからかな?
ある日、社宅にポン菓子屋さんが来ました。
砂糖とお米、500円を持っていくとポン菓子を作ってくれました。
「ポン!」と音を立てて作るので、ポン菓子と言います。
妹が「食べたい!」と言うので、私は砂糖とお米を探し出しましたが、
500円がありませんでした。貯金箱やどこか引き出しに500円
くらいないかなぁ。と色々探してみましたが、ありませんでした。
結局、私たちは買うことができず、見ているだけでした。
その後、母が帰ってから、妹が「ポン菓子が食べたい!」と母に泣きながら言いました。
母はスーパーに買いに行ってくれましたが、売っていませんでした。仕方なく、同じ社宅内の人に「残っていたら分けてください。」と頼みに行ってくれました。
幸い残っていたので、ポン菓子を食べる事ができました。
分けてくれた社宅のおばちゃんは
「欲しかったのなら、言ってくれたら買ってあげたのに。」
と言っていました。
私は、"親でもないのに言えるわけないじゃん。欲しいに決まってるじゃん。
社宅内の子どもはみんな買ってるのに。"と思った事を今でも覚えています。
その時くらいかな?
母が仕事で家にいない事が嫌だな。って思ったのは。
両親が福山市に家を建てる
父は広島市内に戻りたかったようですが、多分もう戻れない。と思ったのか、私が小学校6年生になる頃、一戸建ての家を建てて引越しました。
私も妹も自分の部屋ができてとても嬉しかったのを覚えています。
でも、山の中腹に造成した住宅団地だったので、中学、高校、短大と坂道を自転車で押して帰るのは本当に大変でした。しんどかった。
夏は汗だく。平地に家を建ててほしかった。。。
実は裕福だった?!
母の口癖は
「お金がない。」「我が家は貧乏だから。」
そう言われて育てられました。
だから、私は岡山市内の私立短大へ自宅から電車通学しました。
でも、わたしが高校生の頃、日本はバブル期。
生命保険会社のおばちゃんがよく家に来ていたので、生命保険に何口も入っていたのを知っています。
その後、私が結婚して、実際に家計をやりくりして、やっと気づきました。
あの頃の我が家は絶対裕福だったと(笑)
私の人生が変わっていたかもしれない?
高校の担任の先生が「静岡県立大学を推薦しましょうか?」と母との二者面談で言ってくれていたようですが、母は県外なので、即断ったんです。私に言わずに。
県外に出ると授業料とは別に生活費もかかるから。
母はお金をかけたくなかった。
それを知ったのは、岡山の短大へ進学した後でした。
ある情報番組で静岡県立大学の教授がコメンテーターとして出演していました。
母;「あっ!先生がみえちゃんに推薦しましょうか?って言ってた大学の先生だ!」
私;「何それ?そんな推薦の話聞いてないんだけど?」
母は大学受験を経験していないので、公立大学は私立より授業料が安い事も知らなかったようです。しかも、県立大学。私の学力では一般入試で合格は難しかったと思います。
静岡行きたかったぁーーーーー!!!!
静岡行っていたら、今の私とはまた違う私だったかもしれません。
でも、息子と娘には会えなかっただろうから、静岡行かなくて良かったのかな?
父との別れ
私は22歳で結婚して、23歳で長男を出産しました。
今では早い結婚ですね。
実は私の結婚が決まった頃に父の病気が発覚しました。
大腸癌でした。
父は胎内被曝していたので、原爆手帳を持っていました。
(広島の原爆投下時、胎児だった。)
原爆手帳を持っていたので、通常の治療費はゼロ円。全くかかりませんでした。
そのため、母は最先端医療を探して仙台など遠方まで父を治療に連れて行きました。
最先端医療は自費診療だったと思います。
預金を全部つぎ込んで、2年間治療を続けましたが亡くなりました。
4人いる孫の内、私の息子だけは父に会わせる事ができました。
父が生きている内に生まれてくれた子です。
私ができた唯一の親孝行だったのでは?と今でも思います。
出産後、1年待たずに再就職
短大を卒業し、地元の信用組合へ就職しました。
22歳で結婚し、23歳で長男を出産。
出産を機に退職しました。
日中は息子と二人だけの生活。
初めての育児。
思い通りにならずにイライラしていました。
今考えるとゾッとしますが、
泣き喚く息子を2階から落としてやろうか。と考えた事もありました。
また、社会から取り残されている感じもあり、
息子が1歳になる前に再就職することにしました。
その時私は24歳でしたが、子どもが小さいからでしょうか、
ハローワークの紹介では全く仕事が決まりませんでした。
ある時、人材派遣会社の広告が目に止まり、派遣会社に登録してみました。
登録後、一週間で仕事が決まりました。
仕事をしている間は子どもと離ればなれ。また、託児所に預けているという罪悪感も加わり、仕事から帰って子どもに会えるのが楽しみでした。
ダンナが勝手に仕事を辞めてきた
ダンナは製造業勤務で、結婚当初から給与は良くなかった。手取り月18万円程度。
でも、私も働きはじめたので、なんとかなるだろうと建売の家を購入。
毎月8万円の住宅ローンを払いながら生活していました。
それからしばらくして、リーマンショックによりダンナの会社の仕事が激減。
日給月給だった為、少ない給与がもっと少なくなっていました。
おそらくダンナはもっと稼ごうと思ったのでしょう。私に相談することなく、勝手に仕事を辞めてしまいました。
そんな社会情勢の中、すぐに仕事が見つかるはずもなく、半年は無職でした。
その間、わずかな預金を崩し、生活費をさらに切り詰め、
食費はクレジット決済のリボ払いを使い、やりくりしていました。
そんな時に私が入院してしまいました
悪い事は続くもので、私の持病が悪化し入院してしまいました。私の持病は皮膚疾患なので、ただ安静にしていれば良くなるものでした。
しかし、1ヶ月の入院。手術したわけでもないのに、治療費は30万円でした。
傷病手当、医療保険のお金は生活費に消えていきました。
住宅ローンの支払いもありましたからね。
治療費は母に出してもらいました。
本当にありがたかった です。
ネットビジネスを知る
退院後、ネットワークビジネスを知りました。
栄養補助食品のサプリメントを販売するビジネスでした。
口コミではなく、SNSを利用して広めるものでした。
「これなら、私でもできるかも?
また、入院することになっても病院でも稼げるじゃん。」
そんな軽い気持ちで始めたネットワークビジネス。
しかし、全くお客はつかなくて一年で辞めました。
その後、アフィリエイトやインスタグラマー養成、仮想通貨、FXなどの情報商材を買って、これをやればラクになる!これをやれば稼げる!と色々やってみましたが、
全くダメでした。
気づいたら、情報商材代や生活費の補てんで、カードローンやキャッシングを使って、
どんどん借金が膨らんでいました。
もうダメだ!払えない!
勤めていた会社に「アルバイトを許可してください。」
と申し出てみました。
やはり、汗水流して働くしか、収入を増やせない。
そう考えたのでした。
しかし、上司からの返事は
「ダメだ。アルバイトは禁止。」
「借金は全部でいくらある?」
そう聞かれました。
ウチでおまとめローンを組みなさい
「ウチでおまとめローンを組みなさい。」
上司に言われました。
そうなんです。
その時勤めていたのは金融機関でした。
その金融機関で、750万円
月々6万5千円
13年返済のローンを組みました。
お金は守ることが大事と知る
おまとめローンを組んで、毎月の支払いが安定しました。
心にも余裕が出てきた頃、お金はただ稼ぐだけではなく、守ることが大事。
ということを知りました。
会社勤めをしながら、一つ工夫をするだけで、お金を守ることができる。
もっと早くこの事を知っていれば、私はこんなにお金で悩まなくて良かったのに。
ある一つの工夫。
これは誰でもできる事なんです。
みんなにやってもらいたい。
特に私と同じ働くママさんに。
私みたいにお金で悩んで苦しんで離婚までしてほしくない。
そう思って発信を始めました。